江戸東京物語 川越街道界隈 第64回

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知恵伊豆と安松の野火止用水

地図 松平伊豆守信綱はその知謀で知られ、「知恵伊豆」の異名がある。岡谷繁実が書いた『名将言行録』(岩波文庫)には、こんな話が載っている。  
 三代将軍家光が信綱に江戸城の天守閣造営奉行を命じたとき、普請の棟梁たちが首を集めて考えあぐねたのが白壁の土だった。天下の江戸城天守閣の白壁が薄汚れていたのでは示しがつかない。風雨に晒されても剥げ落ちない白壁はできないものか。  
 すると信綱は皆の前に枕ほどの大きさの白壁をいくつか運ばせてきて、「いずれ必要な時があると考え、二十年ほど前から五通りの方法で白壁の練り方を試してきたが、これが一番丈夫なようじゃ」  二十年も前から寝所の縁先に晒してきたというのだ。  
 明暦三(一六五七)年の大火の際、奥女中たちを無事に避難させるため、とっさに側近六、七人を引き連れると御殿の畳のまんなかの畳だけをずっと裏返しにさせ、これを緊急避難路の目印にした。みごとな危機管理だが、知恵だけでなく、事前の準備が周到だったのである。  
 信綱は武州川越(埼玉県川越市)の城主として、城下の整備にも努め、川越街道や新河岸川の舟運を開いて江戸との結びつきを強めた。家臣に安松金右衛門という建設官僚がいて、玉川上水から新座市野火止にいたる野火止用水(別名伊豆殿堀)を開通させている。
 信綱と安松との間の信頼関係も語り草になっている。用水工事が完成しても、水が流れて来ない。「水が来ないな」。信綱が気にしても、安松は動じない。二年経ち、三年経つ。そのうち作物の出来が見違えるようによくなった。三年目、用水はついに新河岸川へどっと流れこんだ。  
 新河岸は川越市内の舟着き場で、いまも由緒ある地名として残っている。